題名:鎖につながれた象の寓話に基づく象の心理
報告者:ダレナン
とあるサーカスの象は小さい時から鎖につながれている。その小さな象にとって、鎖につながれた杭はあまりに大きく、逃げようと頑張っても、逃げられない。そのうちに、象は自分の無力さを認め、運命に身を委ねるようになる。すなわち、その象が大きくなって、杭が簡単に抜けるようになっても、鎖が切り離されても、そこに居座り、その鎖・杭から自由になろうとしない。
これが有名な「鎖につながれた象」の寓話1)である。
寓話全ては、文献1), 2), 3)を読んで頂ければ幸いであるが、この見方を変えれば、鎖という心への洗脳によって象が操られている状態であることが明らかである。この寓話を読むと、自分の身に覚えがある方も多いに違いない。図で示すと、「そういえば...」となり、「あの鎖、この鎖、そうそう、あの鎖も...、あるなぁ...」、となるであろうか。筆者もその一人である。様々に思いを巡らせると、足だけではなく、体中が鎖で縛られていることも、ふと気付く。しかしながら、である。人が人である以上、会社、あるいは、組織、あるいは、社会によって、人は何らかの鎖によって縛られている。その鎖から逃れることは、自由と言うよりもむしろ、人として社会から外れることをも意味するのかもしれない。法律はまさに人の社会における鎖でも、杭でもある。その鎖がきついか、ゆるいか、あるいは、大きな杭か、小さな杭かは別として、人である以上、人の生活や行動上でどうすることもできない鎖・杭が存在するのも事実である。
図 鎖で縛られた象4)
鎖につながれた象に関する詳細な解釈は、文献3), 4)に示されているのでそちらを参照して頂きたいが、人として大事なのは、自ら気づく、生き方を見直す、となるであろう。法律に触れなくとも、想いによって、人は如何様にも変わることができる。同じように、鎖の呪縛から逃れた象も、如何様にも変わることはできる。耳が大きく、他の象からバカにされるという鎖をおごられたとしても、映画「ダンボ」のようにそれを利点にして、自由に羽ばたくこともできる。ダンボは、自分の耳の大きさが、他の象から与えられていた鎖であることに気づき、生き方を変え、それを利点としてサーカスで大活躍した話でもある。
一方、象といえば、インドの神様であるガネーシャ様も、象がモチーフである。その実体は、この記事にもあるように関西弁を自在に操る「ゆるキャラ」的な神様かもしれない。しかしながら、ガネーシャ様は、ダンボのような耳だけではなく、太鼓腹の人間の身体に片方の牙の折れた象の頭をもった神であるにも関わらず、まったく心理的に鎖にはつながれていない太っ腹(太鼓腹)な神様でもある。実に見習うべき神様である。このことから、近年の世界におけるインドの方々の活躍ぶりの背景には、ガネーシャ魂が身(心)についていることをも示唆しているのかもしれない。0の発見も鎖がない国ならでは、かもしれない。
1) ブカイ, ホルヘ: 寓話セラピー―目からウロコの51話. めるくまーる. 2005.
2) http://meigennote.com/665 (閲覧2017.6.23)
3) http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51932627.html (閲覧2017.6.23)
4) http://www.nozomigakuen.co.jp/column-s/20140901/index.html (閲覧2017.6.23)
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