地底たる謎の研究室

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撮る側と撮られる側のまばたき感



「宇宙コロニー( Off-world colonies )での新しい生活が貴方を待っています。チャンスと冒険に満ちた黄金の土地に、再び巡ってきた好運。」 “A new life awaits you in the Off-world colonies. The chance to begin again in a golden land of opportunity and adventure.”

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題名:撮る側と撮られる側のまばたき感
報告者:アダム&ナッシュ

 本記事は、この記事の続きです。

 先の記事にて公と私の境界を考えるとともに、好奇の目を活かして、「公」としつつも、「私」であるような印象をもつ写真を撮るロシアの写真家のMarat Safin氏の作例を挙げた。ここでは、さらに撮る側と撮られる側の違いを考え、それがどこにあり、それによって、「公」としつつも、「私」であるような印象が何によってもたらされるかについて考えたい。キーワードは表題にあるまばたき感である。
 まばたきは上のまぶたと下のまぶたが重なることでなされる、目の閉眼である。大阪大学生命機能研究科ダイナミックブレインネットワーク研究室の中野珠実博士によれば、まばたきには3種類あり、①音や光、風などの刺激をきっかけに起こる反射性まばたき、②意図的にまぶたを閉じる随意性まばたき、③特に要因なく生じる自発性まばたき、である1)。一般的なまばたきは、自発性まばたきにあたる1)。さらに、コミュニケーションにおけるまばたきとして、話し手のまばたき開始から0.25~0.5秒遅れて、聞き手がまばたきをする割合が高く、人はまばたきを介して情報のまとまりを無意識に共有していると考えられている1)。このようなまばたきであるが、カメラのシャッターもある意味カメラ側のまばたきともいえる。そのため、シャッターを押す際には撮られる側は無意識に撮られる情報であるも、そこは意識的に感知し、自然さを失う。その最たる撮影が集合写真や記念写真である。それを見て、不自然さを感じる人も多いであろう。最近はさらに、写真の画像としてのデジタル化もあって、レタッチも多くなり、より不自然さを極める。創造性という点ではよいものの、不自然な写真は、もはや写真ではなくなる。ただし、「公」の写真は、不自然さがあったとしても、そこは「公」であることから仕方がないのかもしれない。
 一方、先に示したMarat Safin氏の作例は、好奇の目を活かして、「公」としつつも、「私」であるような印象をもつ。氏の500pxを文献2)(アダルトコンテンツに区分されている写真もあるために閲覧する際は年齢に応じて注意されたい)に示す。それは、もはや人のまばたきと同じく、Marat Safin氏のカメラがまばたいていることが類推される。普段からカメラを持ち、目と同じようにまばたきをカメラでしている人の写真には、いい具合に「私」が写る。さらに、そのまばたき感が撮る側と撮られる側でほとんど共通であるとすれば、そこに情報のまとまりを完全に無意識に共有できる。それゆえに、「公」としつつも、「私」であるような印象が撮れる。写真における撮影の極意として、荒木経惟氏3)は、写真を撮ることは「生きるってこと」、「被写体というより写真と関係している、写真それ自体と行為(*)している」と述べているが、Marat Safin氏も荒木氏と同じ意見かもしれない。



図 Marat Safin氏の作例4)

作例(図)をみると、如実に感じる。それゆえに、才能がなければ、この手の写真は、撮れるようで撮れない。

1) https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/082/research_2.html (閲覧2017.11.24)
2) https://500px.com/maratneva (閲覧2017.11.24)
3) 荒木経惟: 写真ノ説明. 光文社. 2016.
4) https://wallhere.com/en/wallpaper/4039 (閲覧2017.11.24)

* :ここでは、表現の内容を一部自主規制しました。正しくは文献3)をご参照ください。



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