地底たる謎の研究室

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美のメタ認識が品格に及ぼす影響


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題名:美のメタ認識が品格に及ぼす影響
報告者:ナンカイン

 本記事は、基本的にこの記事の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 先の記事にて人間の二面性の乖離を恋と美の関連でもって解釈し、人格の統合(品格)を得ることについて検討した。ここでは、先の記事にも示した土橋茂樹博士1)の私案を、筆者なりに読み解きながら、先の記事の隙間を埋めるべく、美のメタ認識が品格に及ぼす影響として、それを渇望したい。
 土橋博士1)によれば、美と善との欲求において、根本的に異なるには、美のみがその価値を直接「感覚できる」1)。それは、古代ギリシアの女性哲学者として、プラトンの「饗宴」にて言及されるディオティマと、同じく哲学者のソクラテスの問答を介して考察され、善は幸福をもたらすものの、一方、美は恋を介して心身両面にわたって美しいものの内に産むことに意義がある。このことから、善よりもさらに高次のレベルに美が位置し、善を見降ろすべく総括として美が存在する。したがって、容易に美を理解することは難しいものの、人間の二面性の乖離から、自己の人格を見つめ直すには、善ではなく、美としての所謂メタ(超)認識が必要となる。この作業によって、人間は美の讃美を有し、それによって「像(エイドーロン(*))」が語りを表し、<ここ>でも<あそこ>でもなく、<別のところ>でもないどこかへ、というように限りなく<世界の内での場のなさ>へと近づけることが精神的に可能となる1)。さらに、そのような位相にある美は、その意味が一つに収斂する必要はなく、むしろ文脈依存的な仕方で、相互になんら矛盾することなく並存し得る1)。例えば、林檎を持ってくる(図)。青い林檎である。青いから赤ではないことが分かる。しかしながら、青でも赤でも林檎は林檎のままである。ここで、このよい林檎を自分のものしたい(食べたい)と欲し、実際に齧りついたら(獲得した)ならば、その時、欲求は充足され、満足が得られる1)。実際は赤い林檎を欲したとしていても、である。しかしながら、美しい林檎に向けられる欲求は、それを獲得することではなく、むしろその林檎を讃美することへと向けられる1)。それは青でも赤でも関係がない。林檎そのものに対する美の評価となる。
 一般的に、根源的な何かに近づくことをせず、表象のみで語ろうとすると、真の美の讃美は得られない。



図 青い林檎3)

青でもない、赤でもない、林檎そのものに目を向け、そこに私自身を透明に化すことによって1)、二面ではない一面としての自ら(品格)が産まれる。

*: エイドーロン: eid lon(複数形エイドーラeid la)、ラテン語イドルムidolum(複数形イドラidola)。もともと姿、影像などを意味するが、哲学史上、知覚し認識する人間と、実在する対象との間に、なんらかの形で介在する像と考えられた2)。
1) http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/work/ronbun18.html (閲覧2017.12.27)
2) https://kotobank.jp/word/偶像-482475 (閲覧2017.12.27)
3) http://www.gatag.net/07/02/2009/150000.html (閲覧2017.12.27)

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