題名:宗教の個別化としての愛の本質
報告者:ダレナン
助けてください。神さま。と祈りつつも、それは誰に向けられているのか分からない祈りでもある。神さまは確かに存在する。でも、その存在は、実在もなく、助けてもくれない。いつも、いつまでも、中立。だからこそ、人は、人々は、祈りたくなる。神さま、と。
この世に唯一神はなく、全知全能の宇宙のみが神であり、そこに神が存在する。
でも、それは、人という存在が創り出した幻なのか、人という枠組みで勝手に映し出された存在なのか。誰も、分からない。
でも、存在自体は消えることはない。その存在が消えることは、この世に、人間という、ホモ・サピエンスというそのヒト存在がないことに等しいから。そうだ、人は、神を意識することで、人となったのだ。
断定的にいおう。
ここで、断定的にいおう。
神だ。人の存在性の根源は。
しかしながら、その存在性は、脆弱であり、ある物事をきっかけに、いとも簡単に崩壊する。こじれた結び目は、こじれているように見えても、案外、単純にほどける。誰がほどいたのか。
それも、神の仕業だ。
愛は信仰であり、信仰は愛である。ということは、信仰こそが愛の本質であり、神の存在無くしては、愛は生まれない。なんじ隣人を愛せよの懐には、なんじに対するつうねんたる愛の真実。神がいてしかり。だからこそ、人は、それから離れられない。それこそが、人が生まれもって備わっている本質。
つがいなき存在からは何も生じず、つがいある関係からは、関連が生じる。神とは、だから、いわば社会性。人の社会の間をつなぐものに、そこに、神がある。そうでなければ、あのウイルスは蔓延しなかった。
そこで、でも、蔓延するには、なにかしらの出会いがあり、その広がりのマップがウイルスの広がったマップもある。
だからこそ、人は、人と出逢って、交流し、そこに生じる相手を信じて、過ごし、語らい、その瞬間、瞬間で、媒介され、行きかう流れに、信じ合う密接な関係が生じる。3蜜。蜜or密。そうして、人は、人から学び、人生を謳歌してきた。そこには、「宗教の個別化としての愛の本質」が洗われる。そうだ、自己が磨かれる、表われるのは、そこに宗教の個別化としての愛があった…、から…、である。なにかしらの蜜な愛…。
だから、その人も、あなたに逢いたい…。そう思う。現実でも、ネットでも。
あなたを好きなのは、あなたを信じる、その宗教に他ならない。
あなたを信じるのは、そう、そこにいる僕が生み出した宗教に他ならない。
だからこそ、誰もが求めるのだ。その愛という個別化された宗教を…。それが…。きっと人なのだ。
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