題名:焼肉のタレに関するロンヒョー
報告者:ダレナン
本物語は、この物語の続きです。
そういえば、なにかの本で小説を書く際に情景描写はかかせないと書かれていたことを思い出した。でも、多かれ少なかれ、小説の書き方と称する本の作者の多くは、本(ベストセラー)がかけてない。
かけていないが、かけてない。
かけても、かけてない。それが事実だった。本当に本を書く小説家は、本の書き方など書くぐらいの暇があるなら自分の物語を書きたい。で、かけてないその人は、売れる売れない本を数冊ぐらいしかかけてない。ということは、その執筆の極意は、別に企業秘密というわけではなく、そんな本を書く余裕があるなら自分の小説を執筆したい、ということだろう。本物ならば…。
だから、なになにの書き方、あるいはなになにの仕方、この手でよくあるのは啓蒙書。
そんな本が山ほどあっても、執筆しても、その人が世に問うのは、啓蒙書の売上であって、真の才能ではないことが多い。いやー、結局は書ける人は書くのであって、書けない人は書けるように見せかける人が上手い人であった、実際は書けてない。それが、分水界だ。
あっちの水はあーまいぞ、こっちの水があーまいぞ、と言われても、どっちが甘いかは、本当はうまいかは、結局、完成された作品への評価だ。
でも、一方で、評価する人は、書けない人。書けないから評価する・したい。
「新作はつまらない。あるいは、最高傑作だ」と。
そういえば、以前に同じようなことを書いたような気がするな。
あっちの世界とこっちの世界。
僕も結局は書けない人以下なのだ。
だから、文句をタレ、この焼肉のタレはいまいちだと論評する。
論評する。ロンヒョーする。ロン・ヒョー・するんだ。
市販のタレはどれもおんなじじゃけと。
「じゃあ、自分で作ればいいやん」
そこで、作ったタレは、タレもがうまいと言えない文体だった。
それがここに示されているタレだった。
もはや醤油とみりんと料理酒と、そして、しょうがとにんにく、ごまの配分が段々と分からなくなってきた。
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