題名:失われた時を探して
報告者:ダレナン
人は大人になると、現実的なことに目を奪われ、過去の時を忘れがちになる。特に、幼少期・青年期などの思い出は、記憶のあいまいさも伴い、その出来事すら大人となると振り返ることがなくなる。あるいは、大人になるとその余裕すらも失われ、現実に目を奪われるどころか、自分自身を失っていることすら気づかず、日々を過ごすことが当たり前となる。
しかし、どのような人であれ、過去には夢があったはずである。
ただし、今という現実(現在)は、夢(未来)というよりも、現実(現在)に追われ、現実(現在)に身を置き、現実(現在)に埋没し、夢(未来)の所在を、過去の夢想として見失う。
いや、見失うというよりも、むしろ。
見なくて失った状況であるという方がふさわしいかもしれない。見えなくて失った状況であるともいえるかもしれない。
そのような状況で、何気ないきっかけによって、人は何かを想い出す。その想いは深く深く、心の底に仕舞われた記憶の断片であったとしても、その記憶の断片がもたらした夢(未来)は、現実(現在)の自分自身に対する失われた時を掘り起こす。
ただ、
目を閉じ、心を開いたとしても、
時の流れは止まることなく過ぎていく。
それが、人生なのだ。それが、人生なのか。
どうあがいたとしても、一瞬一瞬は矢の如く、無常にも流れてゆく。
失われた時を探したとしても、失われた時は、もはや元には戻らない。人の気持ちとは裏腹に、夢(未来)を想い出したとしても、現実(現在)の何もない、何もない現実(現在)が止まることなく流れてゆく。
ただ単純に、ただ単純に、生の循環のみが時を支配する。
無常にも過ぎ去ってゆく時の流れは、誰にも止められない。アインシュタインという天才科学者であっても、その流れは止めることができない。
それが、人生なのだ。それが、人生なのか。それが人が生きるということなのか...(Near Lightの下で)
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