題名:夢世界のまやかしを正す唯一の方法
報告者:ダレナン
本記事は、この記事の続きです。
先の記事にて、夢世界や現実性について考え、会ったこともない、むろん、話したこともない人物とともに、現実性を帯びた夢を見たならば、その内容がどうであれ、目覚めた現実でも夢世界として思念に残ることを報告した。そして、あの人に逢いたい気持ちも、実はこれを起点に目覚めているのかもしれないことも報告した。しかしながら、その一方で、会ったこともない、むろん、話したこともない人物と、もし現実に、会って、話していたとしたら、そこに現実的な夢世界の思念が脳内にすでに記憶として形成されているならば、後は単なる現実の事実との照合になる。そして、そこに、夢世界の思念が、現実世界と重なりをもって、記憶がより真実として語られたまま保存される。こうなると、夢と現実の区別がつきにくくなる。夢が現実であると同時に、現実が夢でもある。ただし、火のない所に煙が立たないのと同じように、現実的でない世界に夢は立たない。近い先の将来や、経験した過去からの夢想はできたとしても、(なにやら妖しいオカルト的な影響を除いて)100年、あるいは、200年先の夢を見ることは、普通はまずできない。見ることができれば、誰しも将来に苦労はしない。同じように経験していないような過去も、見聞きしただけの情報としてやはり個人ではあやふやであり、自己の体験ではない五感の伴わない単なる断片的な記憶のかけらでもある。
図 夢世界のある一点としての現実
結局は、図Aのように夢世界の範囲があっても、ある一点としてそこで現実が現れ、そうありたい、そう願いたいという夢世界の範囲から、ある一点に落とし込むべき、現実的な漠然とした希求が、夢世界の思念として常に準備されている。
それでは、図Bのように現実を起点として夢世界から影響を受けたいくつかの未来へと選択が分かれるのか。そして、それが未来の選択肢ともなるのか。その選択がよかった、わるかったは、後の判断の一つでしかないものの、そこで選んだと思しき偶然は、夢世界がもたらした未来への可能性でもあろうか。
ただし、選択には偶然はない。必然的に選んだ結果としてそこに存在する。偶然と思えども、夢世界では何もかもが決められている。すなわち、人生は図Bのように多岐にわたると思えども、実際は偶然と必然の一致率は、100%に近く(この記事も参照)、図Aとしての選択が正しい選択となる。ゆえに、選択があるようで、ない。その選択肢は、選択があるに見せかけた夢世界のまやかしでもある。それは、エイドリアン・ライン監督の2003年の映画「運命の女」にも示されたように、「あの時に乗るべきであったタクシーは、あの時に乗らなかったタクシーに等しい」。映画を見ていない人にとっては、なにやらさっぱりの意味内容かもしれないが、起こり得る現実と起こり得ない現実は、夢世界のまやかしによって、現実世界で、すでに一軸上で、決定されている、ということは、夢世界のまやかしを正す唯一の方法は、日頃からいい睡眠をとることになるのであろうか。そう思いながら、ここで読み返すと、夢世界のように漠然とした記事であることに、ようやく気付いた。やや睡眠不足かもしれない。が、映画「運命の女」は思った以上に秀作であった。
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