題名:愛における”だから”とボヴァリズム
報告者:ナンカイン
本記事は、この記事の続きです。
やや勉強不足の記事になるかもしれない。前もってそれを文頭で断っておきたいが、少しずつ前進したいと願う筆者の気持ちの過程として、この記事が存在している。それを、予め伝えたい。特に、表題にあるように、ボヴァリズムとは、フランスの文豪であるギュスターヴ・フローベルの名作、「ボヴァリー夫人」から取った用語であることから1)、第26代東京大学総長を務めた蓮實重彥氏による大著「「ボヴァリー夫人」論」を熟読した方からすれば、あまりにもお粗末とも言える「ボヴァリー夫人」の一解釈的な記事であることは覚悟の上で、ここに記したい。
先の記事でも触れているフランスのカトリーヌ・コルシニ監督による「熟れた本能」は、たびたび引用している文献2)によれば、現代版ボヴァリー夫人という位置づけとされている。しかしながら、明確に問えば、ギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」とは状況も随分と異なる部分も多い。例えば、「熟れた本能」における夫、サミュエル(俳優はイヴァン・アタル氏)は医師であり、こちらは、ギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」の夫、シャルル・ボヴァリーの医師であることから、立場上同じ設定であるも、サミュエルは地元の名士とされ、一方、シャルルはフロベールが忌み嫌ったブルジョアの俗物的な部分を体現している嘲笑的な対象として描かれている3)。また、ボヴァリズムとは、本来の自分自身と間違って、自分自身を想像する機能を指し、現実と夢との不釣り合いから幻影を抱く精神状態と称される1), 4)。この精神状態を患ったのが、「ボヴァリー夫人」、エマ・ボヴァリーその人となるが、「熟れた本能」におけるクリスティン・スコット=トーマスさん演じるスザンヌの場合は、現実と夢との不釣り合いは生じず、愛のシンコーるを纏う対象となる男性、セルジ・ロペス氏演じるイバンに対しては、非常に現実的である。
一方、先の記事にて、「だから、人は、誰かを愛する。」と括った。ただし、この”だから”は、何をもって”だから”かが、理解しづらかったかもしれない。”だから”自体は接続詞であることから、前に言った事柄が、”だから”、となって、後から言う事柄の原因・理由になる意を表すはずであるが、実は、前に言った事項があるようで、ないようで、あった。ここに、筆者自らの反省点が生じる。そこで、ここで、その”だから”を、「ヒトは、文化的に愛というシンコーるを人類史的に纏ったことで、とある対象者に対し、特別な感情を抱く」、と補足すると、「熟れた本能」での妻、スザンヌの場合は、その対象となるのがイバンであるが、エマ・ボヴァリーの場合は、レオン・デュピュイ、ロドルフ・ブーランジェと2人の男性がその対象として存在する。ここに、実は、現代版ボヴァリー夫人としての「熟れた本能」であっても、両者に大きな隔たりが生じている。
”だから”は、だの濁点をとると、”たから”となり、愛のたからとなる。しかしながら、タヌキのたからは、”から”となり、愛のたからは、”だから”と”から”の双方の間にある危うい存在となることも指摘したい。
ここで、ディスプレイ面が尽きた。そのため、後の記事にて、愛のたから、について気が向けば論じたい。
1) http://blog.livedoor.jp/seoknamkjp/archives/50016429.html (閲覧2019.1.18)
2) http://cineref.com/kaiken/tabi.html (閲覧2019.1.18)
3) 野田(水町)いおり: 「ボヴァリー夫人」におけるシャルルの役割についての一考察 -視点・視線から見出されるシャルルの役割-. 人間文化研究 12: 239-254, 2009.
4) https://dictionary.goo.ne.jp/jn/205122/meaning/m0u/ (閲覧2019.1.18)
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