地底たる謎の研究室

3000km深から愛をこめて

金と愛、そして、信仰と欲望


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題名:金と愛、そして、信仰と欲望
報告者:ナンカイン

 本記事は、基本的にこの記事の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 ここでの記事などを介して、これまで、お金と愛と、愛とお金にまつわる考察を、映画「熟れた本能」での見識も交えながら実施した。そして、ここで、再び、この記事に立ち返り、ここでの記事で提示した信仰との対象にあるのが欲望ではないか、との仮定の下に、この記事を新たにブラッシュアップし、以後の内容につなげたい。ただし、愛は一文字であり、お金は二文字であることから、愛と対等な立場としてお金を一文字にすべく、金、と表記しなおしたことを前もってことわりたい。
 金、愛、信仰、欲望をそれまでの考察を含めて捉えなおすと、図のような関係があるかもしれない。ただし、金と愛は、実際は具体的な”物”のない、精神概念的な”もの”としての扱いとなることから、それ自体はアクションを起こさないし、起こせない。しかしながら、アクションを起こすのは、あくまでも人の心理的な”もの”として位置づけられる「刺激」となる。そのため、信仰と欲望は、その「刺激」を横断するようにトリガーとして機能する。そのトリガーの機能の仕方が、金よりのこともあれば、愛よりのこともある。「刺激」トリガーのかけ方一つで、信仰と欲望は大きく変動する。
 ここで、ここの記事で仮称したシンコーる(こころの装飾(interior of heart)を彩りつつ、かつ、色めかせる、纏わり)に関して、信仰だけではなく、欲望にも存在する(実際はnorシンコーるであるが、シンコーるに含まれると仮定する)とすると、欲望としてのシンコーるともなる金と愛の存在が産まれる(纏わる)。それが、愛であれば、ここの記事でも示した「終わりなき愛の欲望」に繋がり、金であれば、精



図 金と愛、そして、信仰と欲望の連携

神概念的な”もの”であっても、この記事で示した「お金が欲する、愛、ではなく、信仰(norシンコーるとして、欲望)」、に相当する。
 ここで、ギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」に関して、その小説技法から捉えなおすと、文献1)に示してあるように、社会性、歴史性を極力排除しつつ、狭い共同体内部における個人の心理、諸個人の関係を軸として構成されている。そして、その心理、軸は、実は、図に示す金、愛、信仰、欲望によって大きく結びついている。

1) 野村正人: 「ボヴァリー夫人」における小説技法の一考察. フランス語フランス文学研究 53: 36-44, 1988.

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