題名:言語体系に基づいた個人・集団への帰属に対するあいまいな観測
報告者:ナンカイン
人間の最たる能力の一つに、他の個体(他人)の意図を推論できることが挙げられる(この記事も参照)。それはテレパシーのような超能力でないにしても、完璧な推論ではなくとも、表情や行動でもって推し量れる、他の動物にはない特色でもある。しかしながら、言語を介さないコミュニケーションとして、先の表情や行動などといったノンバーバルコミュニケーション的な手法もあるが、議論を交わして互いの考えに歩み寄るのは、言語を介したコミュニケーションのみによって最も成立する。そのため、人間は進化の過程において、より言語能力を発達させることで、人類は最も複雑な社会的構造を有する種となったことは、今更ここであえて言うまでもない事実であろう。
一方、世界には6900もの言語があると言われている1)。アメリカ合衆国を先陣とする国際化の波にのり、あるいは、古くはイギリスの産業革命以後からの流れでもあって、最も世界的な公用語として発展したのは英語であることには間違いないが、6900もあるということは、その言語に属する考え方が、場合によっては6900存在することにもなるのかもしれない。6900までならないとしても、国の数が190もあり1)、国間で扱う言語が違うことは、世界がグローバル化しつつある今の時代でも、明らかに存在する。それゆえに、その言語独自の言い回しや言語観などは、それを有する人々の考えでもってその言語体系の発達を促したとともに、それを操る人々の意識にも大きな影響を及ぼす。あるいは、逆にみると、その人々の意識が広まった結果として言語体系にも表現されている可能性も否定できない。そのことから、言語体系を紐解くことによって、その言語体系を有する人々の社会に対する捉え方もあいまいながら観測できる。
仮に筆者の名前を田中俊司とする。英語では、Shuji Tanakaとなる。一方で、日本では何かの説明を求めると、いきさつ→いきさつ→要点、として最後に重要なポイントを置き、それに至るまでをオブラートに包んで説明する。一方、アメリカでは、要点→いきさつ→いきさつ、としてまず重要なポイントをがっちりと伝えたうえで、説明する。これを名前と見比べると、日本ではまず初めに田中があり、それに属する要として俊司がある。アメリカではShujiが要であり、Tanakaはそれに属する。このことからも明らかなように、日本では田中から観測されるが、アメリカではShujiから観測される。前者は集団への帰属であり、後者は個人への帰属である。ここに明らかな集団主義的な捉え方と、個人主義的な捉え方がある。
文章面からこれを観測すると、主語(Subject)、述語動詞(Verb)、目的語(Object)、補語(Complement)でそれを検討できるが2)、日本では、S→O→Vなどの順で、時にSはなく、O→Vとなる。例えば、”私はペンを持っている”は、英語では”I have a pen”となるが、日本語ではIがなくとも、あいまいにこと通用する。”ペンを持っている”の文章においても、すでに個人への重きが少ない。ただし、日本以外のアジア圏、例えば、中国では名前は姓→名の順であっても3)、文章は、S→V→Oの順となる。”我有一支笔”として、我は欠かせない。ゆえに、名前に基づく集団への帰属はあっても、中国の説明では、要点→いきさつ→いきさつ、としてまず重要なポイントを伝える点は、アメリカと類似している。このようにしてみると、あいまいではあるが、言語体系と、それを有する人々の社会的な捉え方には何らかの関係が見えてくる。
1) http://www.eiken.or.jp/eiken-junior/enjoy/welcome/detail01/detail_01.html (閲覧2018.7.21)
2) https://hajihaji-lemon.com/english/sentence-pattern/ (閲覧2018.7.21)
3) https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1142237561 (閲覧2018.7.21)
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