題名:「愛」の透明さと不透明さ
報告者:ナンカイン
本記事は、この記事の続きです。
現代の、結末のない「愛」によるその色が、ますます透明さを増すとともに、「愛」の関連性がより不透明となる時代に突入し、一方で、それは「愛」の根本を見直すきっかけともなり得る(この記事)。ここでは、この記事とこの記事のヒト性的二形との論争も交えつつ、「愛」の透明さと不透明さに迫りたい。
ヒトが進化の過程でこれほどまでに地球上に繁栄したのは、ひとえにヒトがもつある一つの側面に集約できようか。ヒトは、他の動物と違って、所謂個体としてのメスの発情期が喪失し(この記事も参照)、年中発情することができるようになった。そのため、季節や期間に縛られることなく、子孫を設けることが可能となった。現在は、逆に地球上の人口が増え過ぎたり、日本のように労働人口の減少といったことも問題視されるも、ホモ・サピエンスという一つの種が地球の至るところに繁栄できたのは、やはりヒトがもつ繁殖力の特徴でもある。人類の歴史から考えると、かつては繁栄という縛りであったヒトが、やがてパンツをはくことで人らしさが目覚め(この記事も参照)、そこから「愛」が産まれた。したがって、パンツは、「愛」を隠す不透明さの源でもある。一方、パンツで覆われた生殖器とは裏腹に、「愛」のこころは、互いのノンバーバルコミュニケーション(非言語的コミュニケーション)への理解から、身体や表情における表現を介して透明な「愛」を見出せるようになる。そして、人類は性的二形を越えた「愛」も、愛の形として認識できるまでに、特異な精神文化が花開く。まさに、「人の心の花にそ有ける」が精神に形となって現れる。しかしながら、現代は、様々なテクノロジーの発達とともに、そのこころの花を認識できる「野生の知」とも呼べるような感性が失われ、人類が元々持っていたであろう原始の「超越性」も失われつつあるのかもしれない1)。かつての人類は、透明性を帯びた「愛」の存在を、「愛」として享受するも、現代は条件にそぐわなければ、不透明として文化の名の元で捌かれることもしばしばある。そもそも、「愛」とは「自由」との結びつきがあったにも関わらず、である。
ここで、「自由」な「愛」を見てみると、その形はむろん性的二形でも起こりえるが、同性でもそこには「愛」と呼べるものがある。古くは、古代ギリシャ時代において、同性愛と異性愛は「どちらもオッケー」という人がほとんどであったとされるが2)、アブデラティフ・ケシシュ監督による映画「アデル、ブルーは熱い色」は、明らかに同性の「愛」に対する現代の「愛」の不透明さを描いている。その映画の元となったフランスのバンド・デシネ作家ジュリー・マロ氏による「ブルーは熱い色」(図)は非常に感性豊かに描かれ、芸術ともいえる作品であるが、映画版にしろ、バンド・デジネ版にしろ、これらは明確に「愛」の透明さを描き、「愛」の本質が垣間見られる。少なくとも、かのスティーヴン・スピルバーグ監督も、この映画を評して、「偉大な愛の映画、そのひと言に尽きる。」4)と述べている。
図 ブルーは熱い色の表紙3)
1) 中沢新一: 野生の科学. 講談社. 2012.
2) https://ameblo.jp/historical-gay/entry-10222836212.html (閲覧2018.2.21)
3) https://www.comixology.com/Le-bleu-est-une-couleur-chaude/digital-comic/42245 (閲覧2018.2.21)
4) http://adele-blue.com/review/ (閲覧2018.2.21)
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