地底たる謎の研究室

3000km深から愛をこめて

不平不満におけるおのれのおごりと記憶の固執との関連


あなたのシェアがとってもうれしいなので~あります。
pocket LINE




題名:不平不満におけるおのれのおごりと記憶の固執との関連
報告者:ダレナン

本記事は、基本的にこの記事の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 先の記事にてやや愚痴めいたことを供述した。それについては反省をしたいが、現実社会における愚痴に根差す不平不満は、多かれ少なかれ対人と人との間の、個人的な記憶に関することがほとんどであることは間違いない。ゆえに、不平不満と言えども、そこには、社会的な通説もありうるであろうことを一信念として、一般的な研究ではまずは扱われない不平不満をいう背景について研究することも、当ショの意義として大いにありうる(と弁護したい)。そこで、本記事では、いわば不平不満は、実は個人の内的な記憶との照合に基づく、自己意識との差異による単なる自意識過剰感として捉えることで、「えっ、あなたはそれほどすごいの?」との、本音での疑問を解消すべく、自己反省的な不平不満に関する記憶への形成について論じたい。
 記憶には、一時的に行われる記憶と、長い期間に渡って保持される記憶とに大まかに分別される。一時的な記憶とは、一般的にはワーキング・メモリと呼ばれるもので、処理された後は、瞬時に忘れてもよい記憶となる。例えば、10+14はいくつでしょうかという問題は、その後において重要性がないために、計算後にすぐに忘れても構わない。しかしながら、不平不満を伝える本心には、人の社会性から「なぜ、俺の意図したことと違いことをするのか」という疑念が根底に根差す。それは、個人の記憶照合において、こうであると固着し記憶した内容と異なる際に、「おまえは…なんだ」と異なる照合が得られたことをも意味する。言い方を改めると、ここの記事でも示したように、「おのれは他人よりもすぐれていると妄想して、他人に対して誇りたがる心のおごり」として、「おまえはなぜ俺の意図した行動をとらないのか」に対する欺瞞が、個人の記憶照合との差異によって、言葉となって生じた結果が、不平不満となる。
 「みんなちがって、みんないい」とは、ここの記事でも示されたように、童謡詩人の金子みすゞさんの詩の言葉1)であるが、金子みすゞさんの意図とは裏腹に、現実世界ででは、不平不満が蔓延していることもしばしばである。
 どのように経験があろうとも、年とともに「おれは..ずごいんだぜ」と自己慢心をすることで、他人に対する柔軟な考えが失われ、自分が法律であるかのようにふるまう。それは、誰が決めたわけでもない、その個人が決めた法律でしかないが、それが一個人にとって基準となっている場合は、その個人は他人を容認できない。その他人による外れた行動は、その個人の中には、記憶の固着との照合から、個人の法律から外れ、結果として、「おれの考えはすぐれているのに、なぜお前は、おれの法律から外れるのか」という具合に不平不満として発露する。この不平不満が立場上で従わざるを得ない場合は、真に厄介である。結果として、「えっ、あなたはそれほどすごいの?」というアンビバレンツな葛藤に陥る。この現象をよく考えると、単なる先の記事で示したように、海馬体での記憶というフィルムに関する編集機能で捉えると、新たな情報をパッケージ化して個々の断片できず、古い世代の記憶と照合として「おれは他人よりもすぐれているとの妄想」によって編集されていると類推できる。いうなれば、一世代前の映画でもって、現代の映画を語っていることにもなろうか。
 固着した記憶に対しては、人は固執する。その固執は、年齢とともに固執する。結局のところ、不平不満を言うごとに、個人の記憶の固執の程度を、如実に表している。

1) 採図社文芸部(編): 金子みすゞ名詩集. 彩図社. 2011.

From ここから。© 2015 This is 地底たる謎の研究室 version。