題名:現存在としての人間に関する限界状況を経て
報告者:ダレナン
ヒトが生物的に持つ限界と言えば、死となる。いかなる人間であっても、生物的な死は、逃れようにも逃れられない。科学の発展とともに、それは忘れさられようとしても、やがて訪れる死は、今はまだ人類共通の普遍的な原理でもある。そのことから、限界となる状況は、いわば平等に課せられた人類の課題でもある。例え、これを打破したとしても、明日、また、明後日も同じ状況が続く発展のない世界は、今度はまた逆に進歩のない(いらない)世界でもあろうか。そう考えると、生と死は、進歩という括りで、神によって巧妙に操られている仕組みなのかもしれない。
ドイツの哲学者で、精神科医であったカール・ヤスパースは、現存在としての人間が、いかなる人間の力や科学の力をもってしても克服できない、逃れることのできない状況、すなわち、これは人間を限界づけている普遍的な状況であるとして、限界状況と名付けた1), 2)。それは、死、苦、争、責、由来、偶然など、われわれの日常的現実を粉砕してしまう状況のことである1)。ここで、この限界状況を見ると、生と死は生物学的に完全に区分されるも、苦、争、責、由来、偶然などは生に含まれることが、おのずと理解できる。その理解を通して、ヤスパースとしても、生の中には死に相当する状況が含まれていることを模索し、それを克服すべく、あるいは、それを認識した時点で、人類は生を通じて一つの概念を生み出したことが示唆される。すなわち、限界状況の裏には、それを取り入れるべく、宗教性、が生じる。
宗教そのものは、人間が苦の中にあると鋭く意識し、そこから解放を解くべき道1)、として形式化された。それに至るまでの宗教的な概念に関しては、どのような経緯があったかは不明であるが(ここの記事も参照)、宗教となってからは、そこには、「人間には越えがたい限界があり、無邪気な生の流れはそれに向かって、断ち切れざるをえない、かつ、平穏無事な日常生活では隠されていて、危機的状況に至って初めて、あからさまに露呈してくる現実の様相であり、それはまた、日常は隠されている心のある本来的な局面が露呈する機会」3), 4)と得られる。こうした人間実在の危機的状況が、ヤスパースのいう限界状況となる。東京大学の名誉教授でもある島薗進博士は、これをして、救済宗教として論じている3), 4)。
救済宗教は、苦難を乗り越える可能性と、苦難の彼方にある私服への楽観的な希望を提示すると同時に、限界を超えていく可能性を示し、人間の思考に土台、あるいは、支柱となる神話的な原点を与える3)。ここで、出現するのが、教祖である。苦難と救いを理想的な人間像、教祖というモデルに宿し、常に救いの可能性を前に立ち決断する主体として生きるも、苦難の自覚と救済の可能性は教祖を介して、同胞でない者たちを差別、排斥するような攻撃的な姿勢を生じさせる可能性を常にまとっている3), 4)。それによって、人間同士を闘争に向かわせ、権力闘争の恒常化と権力配分の不均等が生じる。
この教祖は、紛うことなき人間が人間から生み出した存在である。ただし、宗教性が先か、教祖が先かで問えば、宗教性が先である。このことは、鶏が先か、卵が先か、よりも明快な回答でもある。ただし、この記事でも示したように、"ときめきの果実"は、苦難の自覚と救済の可能性からとしても教祖に実る。
1) https://ja.wikipedia.org/wiki/限界状況 (閲覧2018.11.16)
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・ヤスパース (閲覧2018.11.16)
3) 島薗進: 現代救済宗教論. 青弓社. 2006.
4) 千葉俊一: 芸術の宗教性: 宗教芸術試論(一). 東京大学宗教学年報 34: 71-87, 2017.
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