題名:生きる意味を「それだけが、生きる意味なんだ」で邂逅スル ver 1.1.1
報告者:ダレナン
本記事は、この記事の続きです。
先の記事にて、人が人生に問うべき生きる意味とは、”Life is alive”であり、
“トーラスΣ1によってなされる生の循環において不動点が存在しない流動性”
という結論を見出した。しかしながら、一方で、「純情のアフィリア」の「それだけが、生きる意味なんだ」の歌詞には、不動点と成り得る言葉が存在する。詳しい歌詞の一部はここでの記事で示したが、その中の、「手を離さないで」と「Stay by my side」である。手を離さないことはFreeからの束縛となり、Stayはその通りで留まる、となる。これらの言葉は、物語が永遠に続かせるための、間違いなく不動的な要素となる。トーラスΣ1の生の循環においても、これらは不動となる矛盾点を孕んでいる。このことから、この言葉について正確な解釈が必要となるであろう。そのヒントは、先の記事で最後に述べた“邂逅”(かいこう)を巡った、開口(かいこう:コミュニケート)にある。そこで、ここでは、これについて注釈したい。それによって、不動点なしに、人は人としての生きる意味の流動性を導き出せる。
言葉を発(コミュニケート)する際の意識における心理的概念・操作として、文献1)では明確な回答を引き出している。「私たちは一次写像によってf1によって形成された心像空間および概念空間を二次写像にf2によって言語空間へ写す」1)、である。それは言語が持つ特性でもあり、言語というものは記号それ自体としては無意味な存在であるがそれが意味を持つのは概念空間や心像空間を指示するからであり、それで持って内言語として意識の経過中に展開された意識のコントロールを概念間の連合(感覚面、感情面、思考面における様々な心的要素が互いに結びつく)が図られる1)。それは、人と人との間におけるコミュニケートでも同じであり、言語記号で意識を交わすためには、互いの中の概念空間や心像空間が一致しなければならない。すなわち、感覚面、感情面、思考面における様々な心的要素が互いに共有していなければ、コミュニケートできないことも示唆している。さらに、文献1)では続けて、以下のように述べられている。
「私たち人間同士の間で交わされるコミュニケーションは、各人の皮質中枢に生じる心像(表象)や概念そのものではなく、万人共通の言語記号を相互に交換することで、相手の脳中にその記号の集合が指示する心像(表象)をよび起こすという、間接的手段によってなされ、ある個人のなかに生じた思想、すなわち意味的連続体が、言語の媒介によって、その位相(トポロジー)を保持しながら他人の意識に写像される」
トーラスΣ1の生の循環は不動なく時間によって同方向に流れ、人の生の流れの中には逆がない。これによってトーラスΣ1の生の循環の流れの中で手を離さず、Stayすることは、互いに同じ写像を共有できる。これをトポロジー的に問えば、近傍の意味の収束が全体集合の極限点に収束して発生している自我1)が、トポロジー的に同一視(アイデンティファイ)2)として図れることを意味する。すなわち、“邂逅”→ アイデンティファイすることによって、新たなトポロジーをもった自我に生まれ変われる。
1) 佐野愛: 意識と意味と位相空間. ブイツーソリューション. 2014.
2) 川久保勝夫: トポロジーの発想 ○と△を同じと見ると何が見えるか. 講談社. 1995.
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