題名:天才を再考するから、バカ(アホ)を最高する
報告者:ダレナン
本記事は、この記事の続きです。
この記事で才能と努力に基づく天才について再考した。ここでは、それを越えたレベルにあるであろうバカ(アホ)について再考したい。しかしながら、”再考したい”と述べつつも、表題では”最高する”とした。それは間違いではない。その辺の事情については、記事の中で述べるつもりである。なお、バカという表現は関東方面で多く用いられ、アホという表現は関西方面で多く用いられる。ただし、そのバカ(アホ)の両方の言葉の中には、決して屈辱的な意味はなく、ここでは、かわいげのあるとの意味を内包するバカ(アホ)であるとして、捉えていただきたい。関西弁で言う「おまへ、アホちゃうか」という感じである。
バカ(アホ)と言えば、真っ先に思い浮かぶのがやはりこれまた天才であった漫画家の赤塚不二夫氏による「天才バカボン」を外す訳にはいかない。関西方面でこれを捉えると、「天才アホボン」となるであろうか。一般的なことわざに、「天才とバカ(アホ)は紙一重」とあるが、このことわざから類推するに、天才とバカ(アホ)は表裏一体ということにもなろう。しかしながら、天才とバカ(アホ)は実は表裏一体ではない。「天才バカボン」(「天才アホボン」)には、家族として、バカボンのパパ、バカボンのママ、バカボン、ハジメが登場するが、バカボンのパパとバカボンのママ、バカボンとハジメと相反する対比はあるものの、そこは表裏一体ではなく、むしろ混在している。すなわち、天才バカボンには天才とバカ(アホ)が同居しているのである。このことからも明らかなように、紙一重、もしくは、表裏一体なる一方から一方への移り変わる展開よりもむしろ、「天才バカボン」は同じ展開で存在していることになる。これを作図(文献1)に基づく)すると、図のようになるのかもしれない。天才とバカ(アホ)は図上のように同じ展開に存在していることから360°の関係にあっても180°の関係にはない。しかしながら、その関係は平面ではなく、立体視すると実はバカ(アホ)の真の次元が明確となる(図下)。天才を越えた先の最高の位置にバカ(アホ)が存在するのである。これは、まさに、バカ(アホ)を再考(最高)する、となるであろう。
図 天才とバカ(アホ)の関係
この理論を後押しするように、バカ田大学講義録2)において原島博博士はこう述べている。「バカ(アホ)は個性であり、偉大なる能力である」と。すると、読者の方はこの辺で、この記事は意味あるの? との疑問を呈するであろう。そこで筆者はこう述べたい。「これでいいのだ。」
1) http://people.sc.fsu.edu/~jburkardt/f_src/gnufor/gnufor.html (閲覧2017.7.12)
2) 原島博, 他: 赤塚不二夫生誕80年企画 バカ田大学講義録なのだ!. 文藝春秋. 2016.
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