地底たる謎の研究室

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ドーナツ禅師を食うことで、「空」の教えを諭す


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題名:ドーナツ禅師を食うことで、「空」の教えを諭す
報告者:ダレナン

 本記事は、基本的にこの記事の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 先の記事にて、ドーナツ禅師からの教えを請うことで、ヒトの生きる意味を論考した。その論考から、ドーナツは、一旦かじってしまい、その種数を0としてしまうと、トポロジー的には球面Σ0と同相となり、もはやそこにはドーナツ禅師は存在しないこととなる。しかしながら、「仏の御いのち」としてのドーナツ禅師は、ヒトに栄養を与え、かつ、場合によってはそのうまさゆえに、しあわせを与え、完全に食うてしもうた場合は、もちろん「空」(穴)はなく、球面Σ0でもなく、ヒトの人体(口から食道、胃、小腸、大腸へと導かれる)におけるトーラスΣ1へと新たにアイデンティファイされる。それでは、ここでいう「仏の御いのち」とは何であろうか。さらに、「仏の御いのち」とアイデンティファイされるのは、なぜであろうか。
 ドイツの方でありながら、日本で禅の修行をおさめ、現在、兵庫県美方郡新温泉町にある安泰寺(道元禅師の教えに基づく曹洞宗の寺院)の住職でもあるネルケ無方禅師1)によれば、日本における「仏」の理解には大きな誤解があることを指摘している。「仏」とはサンスクリット語で「ブッダ」となり、その意味は「目が覚めた人」であるという。すなわち、「仏」は生きている間になり、死んでからでは遅い。自分自身が「仏」として生きることが、昔からの仏教の眼目であり、仏教は本来、この自分が今ここで目を覚ますための道であることから、それはいきいきした教えでなくてはならないことを説いている。そのため、「仏」に向かって日々歩むことこそ行(修行)であり、そこに「仏」の道ができる。それが「仏の御いのち」をいただくことに繋がる。
 さらに、ネルケ無方禅師は続けて、過去の自らの疑問について、こう述べている。「学校から帰ってくると、なんで宿題しなくちゃいけない? それは良い成績を取るためだ、と親がいう。なんで成績を取らなくちゃいけない?と聞くと、それはもっといい学校、上のもっといい学校に行くためだと。なんでいい学校に行かなくちゃいけない? それは良い仕事をもらうためだと。なんでいい仕事を貰わないといけないのか?というと、それはいい給料をもらうためだと。それは何のためかというと、豊かな生活をするためだと。それは何のためだというと、結局答えが出てこない。豊かな生活をするためには、ずーっと子供のころから齷齪(あくせく)齷齪して、結局はそのままストレスだけ溜めて死んでいる。」2)。その疑問を解決するために、日本における禅の道を進んだ。そして、行(修行)の中から、生きる意味をさとる。
「生きることそのものが意味なんだ」2)
ということを。そして、この世で人と人との間で働く「神の力」に導かれたことで、坐禅を介して「この身体がそのまま私だ」ということに気づき、禅的な「真ん中」を会得する1)。それは、ドーナツ禅師が無言で伝える「空」(穴)と同じではなかろうか。すなわち、ドーナツ禅師曰く、「我が師(忠告: ドーナツはいちおう和菓子ではありません)として、アイデンティファイしてたもう」、その師の教え、そのものと変わりない。
 ドーナツ禅師から導かれた、ヒトが生きる意味の回答は、案外、ドーナツの内部にあった。それが「空」である。そうして、ドーナツを食うことで、「空」の教えを諭す。それがこの記事でもって、ひとまず完成したことになろうか(ただし、「仏」に程遠い筆者としては、まだまだ記述しなければいけないかもしれないが…)。

1)ネルケ無方: 迷える者の禅修行: ドイツ人住職が見た日本仏教. 新潮社. 2010.
2) http://h-kishi.sakura.ne.jp/s-197.htm (閲覧2018.12.26)

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