題名:極めて内省的な、極めて内緒的な
報告者:ダレナン
本記事は、この記事の続きです。
ここしばらくの恋作に、読者の方々は、そろそろ飽きてきたかもしれない。そもそもこの記事に読者がいるのかは不明であるが、筆者は唯一無二の読者であることは自負している。ただし、ここで、自負が、自分が負けるという感じなのかと、やや不安になる。せめて自分には勝ちたい。自勝でなければならないのではなかろうか。文献1)によると、自は「みずから。自分の。自分で」を意味し、負は「後ろだてとする。頼みとする」を意味する。そのことから、自負とは自分の才能や仕事などに自信を持ち、誇らしく思うこと・強く自信を持っていることを表す1)。駄作であっても、それら一連の恋作は、誰かに響くのかもしれない。連作で枯れるかもしれない。ただし、そのように、やや自らが冷静さを保つようになれたのは、復調の兆しであろうか。その復調の兆しは、総菜や弁当などコンビニが強みとする商品の売れ行きが戻っている2)のと同じであろうか。フランチャイズ☆ショーとして名付けられたそのサイト2)は、正確にはそのズとシの間の星は、5つの頂点ではなく、4つの頂点で示されている。なぜ5つ星としたのかは、疑問に思われる方もいることを想定して、その理由を説明すると、4つ星が意外とフォントにはなかったからである。それは、味方によっては、4つ星を求めても、5つ星しか選択がないことにもつながる。すなわち、自らの頭の中のフォントには、4つ星が存在しないことと同意であろう。その選択肢が少ない、極めて内省的な記述は、場合によっては極めて内緒的な記述となる可能性を示唆している。先の記事でも示したWilliam Basinskiからこの事象を考えると、Vivian & Ondine3)として、同じ旋律を、繰り返し、繰り返し、行いつつ、徐々に分からないくらいの微妙に変化させることは、叙々苑の焼肉と同じで、材料が少なく、たった一つの肉でもってしても、焼き方加減で美味しくなることが予想される。そう、恋作は、焼肉と同じ理論で、美味しいのである。
しかしながら、極めて内省的な思考は、極めて内緒的な思考となり、もはや部分的に面影が薄れてゆく。目隠しはしていなくとも、なぜか見えなくなる部分が覆いかぶさる(図)。時間とは明らかに、記憶の忘却にすぎない。忘却というよりも、タンスの奥にひっそりとしまうヘソクリにも類似し、いずれどこにしまいこんだか忘れてしまう。そこに、あるにも関わらず、その存在が失われる。
「私のこと、しっかりと覚えておいてよ。ほんとに、もう、忘れっぽいんだから。」
「はい。了解しました。」
図 覆いかぶさる4)
1) https://eigobu.jp/magazine/jifu (閲覧2019.5.3)
2) https://messe.nikkei.co.jp/fc/i/news/130441.html (閲覧2019.5.3)
3) https://www.youtube.com/watch?v=ZyI64UVWNps (閲覧2019.5.3)
4) https://whimonline-magazine.tumblr.com/post/30790897752 (閲覧2019.5.3)
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