題名:Daniel Murtagh氏への嫉妬
報告者:アダム&ナッシュ
才能というものはどのように形成されるのであろうか。努力か、経験か、それとも、そもそも何か持っているものが違うのか。
それはなんとも言えない。努力することによって才能を開花できるとされるも(この記事も参照)、いかんともしがたい才能を目の当たりにすると、自分の努力が水の泡と消え去るように感じる時もある。それゆえに、才能については、常に人の能力として古から論議される。
アメリカの写真家であり、映画にも関係し、かつ、作曲もこなすDaniel Murtagh氏は、そのいかんともしがたい才能として、目の当たりにすることができる。写真としての氏の作例を図に示す。その他の作例が、氏のHP2)にあるので興味のある方は閲覧していただきたいが、天才とも思しき、努力では到達できないであろう、その境地は、やはりもつべき才能ゆえの完成度なのであろうか。筆者らとしては、この持つべきものを、明らかに有している、Daniel Murtagh氏に、嫉妬せずにはいられない。やはり世の中には天才がいることを痛感させられる時である。それはここの記事でも検討された、まさに「天才の再考」を、さらに、再考せざるを得ない、明白な嫉妬心にもかられる。
Daniel Murtagh氏によれば、作品の本質は、単に見られるのではなく、感じられる人の経験である「存在」、としている3)。さらに、クリエーターとして氏が大事にしていることは、「魂」にアクセスできるような必要性を常に追求していることにある3)。すなわち、「存在」=「魂」としての作品を創り上げていることが、氏のクリエーターとしての立ち位置となる。そして、19世紀になる前の絵画に描かれていたように、ロマン派や英雄への復帰としての必要性を踏まえて、単に時代を超越して何かを創造するという単純な意図だけではなく、普遍的な真実を明らかにする、それが氏の芸術性の意図となる4)。
図 Daniel Murtagh氏の作例1)
まさに、筆者らが感じた、その作例の「存在」=「魂」の真実は、時代に関わらず、人の琴線に触れる普遍的な「存在」、「魂」なのかもしれない。
インターネットが普及し、Daniel Murtagh氏のような、明らかに天才的な才能に多く触れることができるようになった。それと同時に、あまりにも才能のないふがいなさを常に感じずにはいられないことも多くなった。努力にて、やがて才能が開花するのであろうか。その答えは、これもまた解のない問いでもある。
1) https://art.blognook.com/2017/10/16/kate-daniel-murtagh/ (閲覧2018.12.6)
2) http://danielmurtagh.com/ (閲覧2018.12.6)
3) http://danielmurtagh.com/about-2/ (閲覧2018.12.6)
4) https://www.dodho.com/presence-by-daniel-murtagh/ (閲覧2018.12.6)
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